嫌いな人がいてもいい
あんも.iconを嫌っている人がいても構わない
あんも.iconが嫌っている人がいてもよい
誰にも嫌われないようにするのは大変
副作用まで管理する必要がある
誰も嫌いになることができない
嫌いであることを取り繕うにしてもコストがかかるあんも.icon
おそらく好感度(って何?あんも.icon)を常に正にすることよりも、コスト面でマシな方針がある
好感度=ある人の評価指標(私の行動)のように単純化してみる
好感度が正になるか・負になるかはあまり重要ではないかもしれない
計算が行われていて、値に偏りがあることが重要に思うあんも.icon
自分の絶対的価値を仮定したければ、自分で認めればいい
誤った評価を受けないため
これ自体はあんも.iconの単なるポリシー
あんも.iconを嫌っている人はあんも.iconの書いた情報を得るハードルが大きそう
個人への信頼を根拠とした裏とりのスキップができない
情報源が信用できないから
嫌いな人が発信している情報を目にするのは心理的負荷が高い
あるよね やめたほうがいいですよ
尤も、傷つくのがお好きな方は効率的にダメージを受けられるので、おすすめです?
完全には拒絶しない
あんも.icon自身がとりあうわけではないから
情報が相手をしてくれる
直接話す場面ではつらい…あんも.icon*2
嫌いな人と直接話さなければならない場面でつらさを痛感したあんも.icon
あんも.iconの僻みが入った目で見ているので、決めつけでしかない
できるだけ情報にだけ注目するようにする
人物は注意の外に追いやる
ある種のフィルタを勝手にかけてくれている
コンテンツではなく、発信者ベースのフィルタ
過激な主張をするならこれあんも.icon
これはあんも.iconよりも有能な人に対しては通用しない
あんも.iconが困っているようなことには困らないだろうから
が、この有能はあんも.iconの評価軸において仮定しているものなので正しくない場合がある
あんも.iconを嫌っている人をあんも.iconが苦手に思っていることもままある
逆もおそらくあるあんも.icon
穴は掘っていけあんも.icon*3
同様の考えは高校生のころにもっていたあんも.icon というか、この考えがある種の転換点だった
嫌いな人と直接話すのはやっぱり不快あんも.icon