MAD作者は「引退」するべきではない
前のステージから次のステージへ、
「区切りの儀式」が必要な時。
↓
①前のステージに物理的に戻れない時
例:卒業式、成人式
②前のステージに留まらないと表明すべき時
例:政治家の不祥事
③前のステージを労う時
例:還暦祝い
④次のステージに進む推進力を得る時
例:結婚式
引退ってなんやろね。引退がある/なしの違いって。
仮説① 社会的責任が伴う場合「引退」が必要説。
例)政治家,芸能人など
→その立場でいることに責任があるので、ちゃんと「やめます。もうやりません。責任取ります」と宣言する必要があり、それの儀式として「引退」がある
仮説② 労いの意味を付与するために「引退」が必要説。
例)スポーツ選手の引退,定年で引退など
→やってること自体に責任がなくても、「辞めて楽になります」という意味合いで「引退」が使われる。他人からの労いとして使われるパターンと、自分で自分をねぎらうために使われるパターンがある
こんなもんかな、他にあるかな。
MAD作者が「引退」すべきでないと思う理由は、
まず、仮説①には該当しない。
仮説②を適用するにしても「引退」という言葉を発した時点で、仮説①の意味合いが想起され「お前はMADを作るのに責任感なんて感じてたのか」と自他ともに認識させることになる→ →MADごときにそんな責任感じるなんてあほらし、と思われるリスクがあるし、自分で自分がやってきたことに重みを付けることになるので自分がしんどくなる。
よって、MAD作者は「引退」するべきではない。
なぜなら、いつでも戻って来れるのがネット創作の良いところだからだ!これだ!自分が思ってた核心