集団浅慮
#book
https://m.media-amazon.com/images/I/613-yEnWikL._SL1435_.jpg https://www.amazon.co.jp/dp/4478123683?tag=1000ch-22
同質性が高い組織は、外部からの視点や異なる意見を受け入れにくく、外部とは異なる内なるルール(内輪の論理)がまかり通り、集団浅慮にも陥ることも多い。
ジャニスは、ケネディ政権によるピッグス湾侵攻、トルーマン政権と朝鮮戦争、ジョンソン大統領によるベトナム戦争のエスカレーション(軍事的拡大)など、米国の歴代政権が犯した重大な失策をつぶさに分析していった。その結果導き出されたのが、集団による意思決定プロセスに潜む「集団浅慮」という罠だった。ここではひとまず「優秀であるはずの個人が『集団』になったときに発現する、あまりにも愚かな意思決定プロセス」とでも定義しておこう。
当時のフジテレビを知る中高年層はもちろんとして、いまの若い世代のなかにもどこか、「内なるフジテレビ性」が残存していないだろうか。 たとえば、お笑い芸人たちに見られるホモソーシャル的な仲間意識。「いじめ」と「いじり」の曖昧な境界線。露骨な下ネタ、セクハラ、パワハラ発言を軽い冗談として笑い飛ばす高圧的空気。暴力的で、恫喝的な言葉遣い。なんらかの「業界人」を自任し、業界を知らない「素人」を蔑む心性。──これらはすべて、現在のインフルエンサーやSNS空間にも見られる態度であり、多くの人々がその「フジテレビ的なノリ」に喝采を送り、加担し、溜飲を下げている。
集団浅慮の発見がその後の社会心理学、また組織心理学に与えた影響は極めておおきい。たとえば旧日本軍の組織特性を論じ、第一級の日本人論、組織論としても知られる1984年の名著『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(野中郁次郎ほか/ダイヤモンド社、後に中公文庫)のなかでも「多くの示唆を受けた」一冊として、ジャニスの同著を紹介している。
ニュースピークとは、旧来の英語(オールドスピーク)の語彙に制限をかけ、文法も単純化し、党による造語を追加して構築された、あたらしい英語のことだ。語彙を奪い、言葉を改変することで党は、市民の認知能力をコントロールする。
これに対して二重思考は、ややわかりづらい概念だ。「矛盾したふたつの信念を同時に心に抱き、その両方を受け入れる能力」がその定義だが、具体的には、党の語る嘘を「嘘」だと知りながら、それを「唯一絶対の真実」として受け入れる能力、と考えてもらえばいいだろう。
集団凝集性が高いほど、集団は、その規範への同調と、集団の目標、割り当てられた課題と役割を受け入れさせる力が高くなる。最後に、凝集性の高い集団はメンバーの安心感の源泉となり、不安を減少し、自尊心を高めるのに役立つ。
12人の恐れる男、黄金の三割
まっとうな批判精神を鈍麻させ、出る杭(逸脱者)が現れたらそれを打ち、ムラ社会のなかでのんびり過ごす住民となった
激しい議論は「クラブのような雰囲気」にそぐわない。批判や対立は、愛社精神を揺らがせる。逸脱者の存在は自らの正しさに疑念を生じさせ、過度なストレスを呼ぶ。そして日本的とも言える特徴を付記するなら、全会一致である限り、誰も責任を取る必要がない。こうしてまともな議論もないまま、他の選択肢を考えることもしないまま、その決断によって引き起こされる悲劇的な結末に思いを巡らせることもせず、安易な全会一致を求めるプロセスこそが、「集団浅慮」だ。凝集性の高い集団は「議論」を嫌い、「熟慮」を嫌うのである。
自らの善良さに関する揺るぎない倍念は、「倫理的葛藤」を最小化させる、とジャニスは指摘する。
いかに具体的な警告があったとしても、それを無視するよう、自分に都合のいい情報だけを拾い集めて合理化していく。ある種の「正常性バイアス(自分にとって都合の悪い情報を過小評価する傾向)」であり、「確証バイアス(自説を裏付ける情報ばかりを集め、反対意見を無視・軽視する傾向)」であるとも言える。
内心では「おかしい」「それは違う」と思いながらも、「けれど、みんな贅成しているのだろう」と思い込んで、沈黙を守る。
そして議論らしい議論もないまま、ぼんやりとした全会一致のなか、物事が進んでいく。まさしく全会一致は「幻想」なのである
集団浅慮とは、「凝集性の高い組織のメンバーが、『全会一致』を強く求めることによって引き起こされる、浅はかな思考様式」と定義することができる。
なお、「同質性の高い壮年男性」たちに、特段の悪意はない。港社長、大多専務、G編成局長にしても、悪意に基づく決断はひとつも下していないはずだ。ただシンプルに、知らないのである。自分たちがいつの間にか「オールドボーイズクラブ」を形成し、狭い視野のなか意思決定を下したことを。それがなんら客観的な根拠に基づかない集団浅慮であることを。そしてそこにある無邪気な不知(知らなさ)こそが、「オールドボーイズクラブ」の恐ろしさであることを。
昭和の人権教育は、実質的な「同和教育」として進展してきた歴史を持つ。特に「同和対策事業特別措置法」が制定された1969年以降はその流れが顕著になり、とりわけ関西や九州北部を中心とした西日本では、熱心な同和教育がおこなわれた。
自分とは異なる意見を、その価値観を、敬って重んじる。黙って従うのではない。感情的に反論するのでも、説得にかかるのでもない。まずは聴く。意見の正しさを争う前に、「相手がそう思っている事実」を尊重する。たとえお互いの意見が対立していたとしても、いや対立しているときにこそ席を立たず、対話をあきらめず、まずは「尊重」というクッションを、そのあいだに挟むのだ。
人は、自らの「知らなさ」を自覚できなくなったとき、「知らなさ」を教えてくれる他者が周囲からいなくなったとき、集団浅慮の坂を転がりはじめる。自身の正しさを疑わず、過去の常識(不敗神話)に溺れ、異論を排除し、まともに議論することもないまま、うやむやな全会一致に逃げていく。これは「同質性の高い壮年男性」に限らず、「同質性の高い日本社会」全体に言えることではないだろうか。