迷うことについて
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ある学生が、ソクラテス以前の哲学者メノンのものだという言葉を携えてきた。いわく「それがどんなものであるかまったく知らないものを、どうやって探求しようというのでしょうか」。
とりわけ文芸の偉業を成し遂げる人間をつくりだしてきた資質、……それは消極的能力なのだ、つまり、いたずらに事実や合理を追い求めないで、不確実な状況や謎や疑いのうちにとどまっている能力なのだと」。この考え方は、「未詳の土地」と記された古地図の領域のように、さまざまな場面で繰り返し浮かび上がってくる。
ベンヤミンの言葉に倣えば、迷う、すなわち自らを見失うことはその場に余すところなくすっかり身を置くことであり、すっかり身を置くということは、すなわち不確実性や謎に留まっていられることだ。
迷子になる人は迷いそうなときに注意力を働かせておらず、帰り道がわからなくなった時点でどうすればいいのかわからなくなってしまうか、道がわからないこと自体を認めようとしない。
たくさんの野生の自然を読解可能なテキストへ変える手がかりがあり、それに関心を払う技術がある。遭難者の多くは、地球に書かれたそうした言語を読む術を知らないか、足を止めて読み取ろうとしない。それに加えて見知らぬ環境で緊張を解き、いたずらなパニックや苦痛を招かず、迷っている状態に自分を馴染ませるというまた別の技術がある。
迷った=失われたという言葉には、本当は二つの本質的に異なる意味が潜んでいる。「何かを失う」といえば、知っているものがどこかへいってしまうということだが、「迷う=〔自分が〕失われる」というときには見知らぬものが顔を出している。モノや人は──ブレスレットとか友人とか鍵とか──視界や知識や所有をすりぬけて消えてしまう。それでも自分がいる場所はまだわかっている。失くしてしまったモノ、消えてしまったひとつのピースを除けばすべてよく知っているとおりだ。一方で、迷う=自分が失われるとき、世界は知っているよりも大きなものになっている。そしてどちらの場合も世界をコントロールする術は失われている。
こうした迷い人や囚われ人は、まず故郷からの遠さや自分が望むものまでの距離を感じるのが常だった。そして、ある時点で驚くべき逆転が起こり、その場を居心地よく思えるようになり、あれほど切望していたものごとが遠くてよそよそしく、不要なことに思えてくる。