説教したがる男たち
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徹底して無知でありながら、完璧で挑戦的なまでの自信に満ちた態度というのは、私の経験では、特定のジェンダーと結びついている。男たちは私に、そして他の女たちに、説教したがる。自分が何を言っているのかよくわかっていなくても。そういう男は存在する。
だが自分の意見に価値がないと思わされてしまうこの症候は、ほぼすべての女性が日々経験する戦争だ。それは女性の内面で起きる戦争でもある。自分がいなくてもいい存在だと思い込み、沈黙に追い込まれてしまうこと。
暴力は人々を沈黙させる。それは人の語る権利や信頼性を否定するための手段だ。暴力をふるうことは、他人の生きる権利より自分のコントロールする権利が大事だ、と主張するのも同然だ。
男は自分が何を言っているのかわかっていて、女はそうでない。そう断定的に教えられることは、たとえどんなにささいな会話の一部であっても、この世界の醜さを永続させ、光を奪ってしまう。
女性たちはほぼみな、ふたつの前線で戦っている。ひとつはなにか特定のトピックをめぐる戦いだが、もうひとつはもっとシンプルなものだ。声を上げ、思想を持ち、事実と真実に基づいて語っていることを認めてもらい、価値観を持つ。要は、人間らしく生きるための戦い。
女に説教するっていうのはそれほどジェンダーと関係のある現象じゃない、と男たちがいう。するとたいてい女性たちはこう指摘した。女たちが身に起こったって証言しているのに、それを否定する権利にこだわる、それ自体が説教するっていうことなのよ。
なんでもない会話のその先には、男性にのみ開かれた空間が広がっている。言葉を発し、話を聞いてもらい、権利を持ち、社会に参加し、尊敬を受け、完全で自由な人間として生きられるような空間。そこには女性は入れない。かしこまった言葉で言えば、これが権力が行使される一形態だ。同じ権力が、罵倒することによって、物理的な脅迫や暴力によって、また往々にして世界の構造そのものによって、女性を沈黙させ、存在を消し去り、無力にする。そのとき女たちは、平等でもなく、社会参加もできず、権利を備えた人間でもなければ、生きた存在ですらない。
暴力が蔓延する原因として出てくるのはいつも、ジェンダー以外のなにかだ。ジェンダーこそが、もっとも広範なパターンを説明するものであるはずなのに。
欲望を抱えて女に近づく男は、同時にその欲望がはねつけられるかもしれない可能性を思って、あらかじめキレている。怒りと欲望はセットになっていて、それが複雑に絡み合ってつねにエロスをタナトスに、愛を死に変貌させる。ときに死は現実のものとなる。
彼女の名はアジア。彼の名はヨーロッパ。彼女の名は沈黙。彼の名は権力。彼女の名は貧困。彼の名は富。彼女の名は女で、何ひとつ所有していない。彼の名は男で、女も含めこの世のすべては自分のものだと思っていた。相手の意志もことの結果も考慮することなく、女を手に入れることができるはずだと思っていた。ひどくありふれた話だ。でもここ数十年で、ことの成り行きは少しずつ変わってきている。そしてこのありふれた話の顚末は、今度ばかりは多くの組織を震撼させている。
この表現がしっくりこなければ、「性的」は置いておいて、「暴行」や暴力に注目してみればいい。それはほかのだれかを人間として扱うことを拒絶し、もっとも基本的な人権、身体の統合性や自己決定権を否定する行為だ。
彼の名は特権だが、彼女の名は可能性だ。彼の物語はありきたりだが、彼女の物語は新しい。それは語りの変化の可能性についての物語であり、決して完結することがなく、私たちみんなについての、とても重要な物語だ。
「現代はまさにそういう時代、解釈の試みが主として反動的で抑圧的になる時代だ。解釈とは知性による世界に対する復讐なのだ。解釈することは、対象を貧困化することである」。
それはネガティブ・ケイパビリティ、すなわち、短絡的に事実や理性を追い求めることなく、不確かさや謎、疑念とともにあることができるという能力だ
ウルフがここで求めているのは、ウォルト・ホイットマンの詩の一節「ぼくはたくさんのものでできている」をより内省的に、アルチュール・ランボーの「私とは一個の他者である」をより控えめにしたような自己のありかただ
「もちろん#男がみんな、女嫌いでレイピスト的ってわけじゃない。でもポイントはそこじゃなくて、#女はみんな、現に存在する女嫌いでレイピストの男たちを怖れているってこと」。
私たちが生きる世界の性質についての対話が、予測もつかない出来事の影響を受けて前進するときがあるのだ。物語が変わるのは、そのときだ。
革命とは一義的には単一の政体における権力の掌握ではなく、新しい思想や制度が生まれ、その影響が広がる複数の裂け目であると。彼の言葉を借りれば、「一九一七年のロシア革命は、ソビエトの共産主義だけでなく、究極的にはニューディールとヨーロッパの福祉国家も生むことになる世界革命だったのだ」。つまり、ロシア革命は完全な失敗でしかなかったという通常の前提は、覆されうるわけだ。グレーバーは続ける。「一連の革命のうち最後のものは一九六八年の世界革命だ──ちょうど一八四八年のものと同様、それは中国からメキシコに至るまで世界中のほぼ至るところで起き、いずれの場所でも権力を掌握するには至らなかったにもかかわらず、あらゆることを変えた。それは国家の官僚主義体制に抗い、個人の解放と政治的な解放は切り離すことができないと主張する革命だった。そのもっとも恒久的な遺産は、現代のフェミニズムの誕生ということになるだろう」。