社会契約論
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子供と親の絆は、子供の生命を維持できるかどうかという問に尽き、自立可能になった瞬間から子供は親への服従義務はなくなり、親は子供の養育義務から解き放たれる。自立後にその絆を維持しているとしたら、それは双方が任意にそうしている
人間の権限を持った統治構造は、被治者に不利である。人類が数百人に属しているのか、数百人が人類に属しているのか。グロティウスの市民論によると、全体が数百人に属しており、ホッブズも同意見である。生まれながらに平等ではないのは事実、ただ結果と原因を取り違えている
強者が地位を維持するには、力を権力に変え、服従を義務に転換する必要がある。奴隷になることによって、君主は社会的安寧を与えるとする。しかし、野心による戦や、国王の飽くなき貪婪や各臣の虐政など、軋轢を生むのであれば安寧とは言えない。「安寧な生活」は牢獄でも送れるなら。
人は生まれながらに自由であり、子供を売り渡す権利を親は持たない。自由の放棄は人間としての権利や義務を放棄することだ。
グロティウスの主張は、奴隷の起源を戦争に求めている。勝者は敗者を殺す権利があり、敗者は自由と引き換えに生命を維持できる。といったものだ。しかしこれは断じて違う。原始から人間は独立して住んでおり、戦争が起こるほどの依存関係がなかった。戦争は国家と国家の争いなのだ。
制服の権利は強者の法を基礎としていることに他ならない。戦争の消費者に殺戮の権利を与えるものでないとすれば、奴隷にする権利を与えるものでもない。奴隷にできない場合のみ殺す権利が発生するので、殺す権利から奴隷にする権利は発生しない。そのため、自由の対価に奴隷にするのは不正取引だ。
専制主義の立場は良くならない。群衆を鎮めることと統治することは、大きな差がある。つまり集合 aggregation と結合 association の差である。
人類は自然のまま生きることが難しくなってきた故に、それを凌駕する力を得ようとした。しかし力を生み出せないため、力を合わせて統制しようとする。力を合わせるのだが、個々の自由は力は個々保存に使われる道具である以上、自己に対する注意を削ぐことなく他の用途に充てなくてはならない。
『個々人の連合の共同の力の全体をもって、各個人の生命財産を防護し、各個人は全体に結合してはいるが、やはり自己にしか服従せず、以前と同様に自由であるような一つの連合形態を発見すること』。これが社会契約によりて解決せらるべき根本問題なのである。自らを譲り渡せば各人の条件は平等になり、要求するものを持たない。あくまで全体に対して譲り渡すのであって、全体に属する他の個人に譲り渡すわけではない。共同の我なのだ。
我々は各々その身体と力とを、共通に、一般意志 volonté générale の最高指導の下に委ね、そして改めてもう一度我々全体が各人を全体の不可分の部分として受け入れる。
公共体(共同の我)と個人が契約を交わすと共に、個人が自分と契約している。言わば二重に契約を交わしていることになる。
第七章主権者
自然状態から社会に従属する状態への変化は、人類に著しい影響を与え、正義を自覚させ行為に道徳的意味を与える。肉体的衝動は収まり、正義がその代わりを務める。自分の意思だけでなく周囲の原則を意識することで便宜を失うが、視野は広がり意見は高尚なものになるので、人間が理知的生物になることなのだ。
第八章: この社会契約で引き換えになるのは、自由意志やすべてのものに対する無制限の権利であり、獲得できるものは社会的自由と所有物に対する一切の権利である。さらに道徳的自由が付加されて、人間が社会的に人間たる。
第九章土地所有権: 共同体の一部になることは、自分自分および財産を含めて譲り渡す。占有する人が変わったとて占有する性質は変わらないので、主権者のものになるわけではない。しかし国家の力は大きいので、事実上強固で安全になる。先取権は強者の権利より真実であるが、所有権があってこそである。自然状態では皆必要なものを自分のものとする権利を持っているが、所有を分割するとそれを守り、共同体においてそれ以上の権利を持たない。なので、自然には薄弱である先取権は、社会においては強固に機能している。先取権には、まだ誰も住んでいないこと、生計に必要な土地のみを占有すること、そこで労働や耕作が行われていること。
社会契約は、生まれながらに存在する肉体的不平等の代わりに、精神的平等と合法的平等を齎す
第二篇
第一章主権は譲り渡すことができぬ: ここまでの主原則を踏まえると、国家の力を指導できるのは一般意志のみということだ。個々の利益が相反するがゆえに社会が生まれたのであれば、設立たらしめたのは個々の利益が一致したからであり、この共通点が社会的結合の連鎖なのだ。ゆえに共通点がなければ社会は存在し得ない。社会は共通意志そのものであり、主権はそのために行使される。だから、権限は交付されても、意志は交付されない。
第二章 主権は分割できぬ: 主権を譲り渡すことはできないので、分割もできない。すなわち、国民総体の一般意志(=法律)か一部分の意志(=行政官の行為)に2分される。主権を分割できないので、政治学者はその対象である力と意志、司法権と立法権に分割する。政治学者はこれらの分割した概念を寄せ集めて社会に示している。
第三章 一般意志は誤ることがあるか: 一般意志は常に公共の利益を目指しているが、常に正権というわけではない。人は常に自己利益を望むが、その正体が何か必ずしもわかっていない。一般意志は共通の利益を目指すが、全体意志には私利が含まれ、個人意志の総和になる。その中の良い意志と悪い意志の総和がプラスとして残ると一般意志となる。市民ひとりひとりが互いに連絡をせず充分な見識を持って政治に意見する場合、その中から一般意志が生まれる。しかし党派のような部分的団体が生まれると、その団体の意志は、団員にとっては一般意志だが、国家にとっては個人意志である。投票が市民という単位ではなく団体という単位になっているとも言え、ひとつの団体が大きくなるともはや一般意志はなくなる。市民の意思を反映させるために、中心的な団体を作ってはならない。
第四章 主権の限界: 国家が市民の精神的人格であり、国家の行いがそれを維持するためのものであれば、国家が全体を動かし支配する普遍的強制力を保持する。人が四肢を動かす権力を持っているように。この権力が一般意志である。一方で、これを構成する私人の自由は公人と独立しているので、この点を考慮しなくてはならない。だから、市民の臣民としての義務と人間としての自然権は区別しなくてはならない。臣民は主権から要求されたら尽くさなくてはならないし、主権は臣民に共同体の役に立たないことを要求してはならない。そこに義務があるのは相互的だからであり、共同の利益であるがゆえに意思が一般的たらしめている。
第五章 生殺の権: 人の生殺を握る権利が無いがゆえに、人にそれを与えることもできない。生命を維持するための行動に危機を伴うこともある、火事を免れるために窓から脱出したら n 階だったように。社会契約では契約者の安全を保証するが、多少の損害や危険を伴う。罪人に処する死刑も同じ論理で適用できて、社会的正義を攻撃する悪人は祖国の法律を破ることで臣民ではなくなり、戦端を開く。そこから、国家の存続と彼の存続は両立しない。しかし、罪人はそこに住んでいることから臣民であると認識するので、追放するのか死刑に処するのかして国家と絶縁させる必要がある。
第六章 法律: 社会契約によって、政治体に生命と存続を与えた。次に立法によって運動と意思を与える。物事の善悪はその本性から然るのであり、規約とは関係しない。正義の一切は神から生ずる。一般意志は特殊なものに向けられないが、この特殊なものが国家の外にあるのか内にあるのかで言えば、外にあれば彼ではない意志が彼に対して一般的ではないし、内にあれば国家の一部である。内にある場合は全体と部分にそれを維持する関係が発生し、その関係がある限りは全体として1つのものではなくなる。故に、一方の意志は他方に対して一般的ではなくなる。国民が国民に対して命令するときは、自分自身のことしか考えていないので、2つが生まれても異なる見地から全体が全体を見ているに過ぎない。その場合の命令されるものの意志は命令する意志と同じく一般的であり、これを法律とする。法律は意志の一般性と対象の一般性を兼備しているので、誰かの独断や主権者が特定の人に命令することは法律ではなく、行政官の行為である。
第七章 立法者: 人間に最適な規則を発見するには、人間のあらゆる欲望を、それを経験せずに理解する理知が求められる。国民の幸福と疎でありながら考慮でき、将来の国民の名誉に思いを馳せ、次の時代を楽しめなくてはならない。制度を決める人は、人間の性質を変える確信のある人であるべきで、自然から受け取った個々の肉体を超えて全体としての精神的統一を計ること。社会が誕生するときは国家の元首が制度を作るが、後々は制度が国家の元首を作ることになる。法を定める者は非凡でなくではならず、国家を組織するのが法なので、立法者は国を超越する。人間を支配するものが法を支配してはならないし、法を支配するものも人間を支配してはならない。
第八章 人民: 建物を建てる前に地盤を確認するように、法を定める前にも人民が耐えうるか検査する。自由を獲得することはできるが、自由を回復することはできない。
第九章 人民(続き): 人間の身長に一定の限界があるように、国家の力にも最大限がある。ゆえに、大国になるほど隅々まで管理するに及ばす、小国は大概強い。距離が大きくなれば行政は困難になり、行政が階層化されるほど費用が嵩み、人民の負担になる。
第十章 人民(続き): 政治体の大きさを計るには、国土の大きさか、国民の数か。国家を作るのは人間であり、人間を養うのは土地。土地が耕作物を余計に生み出せば、他国から侵略される要因になり、時刻の産物が乏しければ他国を攻め込む要因となる。国家の建設は、国民が平和を享楽とするかが最優先の条件である。
第十一章 各種の立法組織:
第十二章 法律の分類: まず気にかけるべきは、公共団体全体がそれ自身に働きかける、あるいは主権者と国家の関係である。この関係を規定するのは国家法/基本法。第二の関係は、団体とその構成員の関係。第三に、人間と法律の関係。第四は最も重要で、法律の位置づけ即ち、風習であり習慣であり世論である
第三編
序言: まず、政府の意味を明らかにする必要がある
第一章: 汎ゆる自由な行為は2つの原因からなる、精神的要因と肉体的要因であり、精神的な意志とそれを実行する力である。国家の意志は立法権であり、国家の力は執行権である。立法権は人民に属するが、執行権は人民や主権者に属さない。政府とは臣民と主権者の間に設けられて、法律の執行と民事上および政治上の自由維持に務める団体である。この団体の構成員は、行政官あるいは支配者(王)と呼ばれる。執行権の社会的行使を政治または最高行政と呼び、この執行を委ねられた個人を行政官と呼ぶ。主権者が政治しようとしたり、行政官が法律を作ろうとしたり、臣民が服従を拒めば、このバランスは崩れてしまう。
第二章 種々の政体を成立せしむる原理: 政府の性質を区別するには、政府とその言質を区別しなくてはならない。政府を組織するには行政官が多くても少なくても成り立つが、政治の送料は国家の大きさそのものなので不変であり、政府にかける力が大きいほど、残る力が小さくなる。つまり、政府を構成する人員が少ない程、政府は強固になる。行政官の意志は3つあり、私利を図る個人的意志、政府の利益を図る行政官全体の意志、人民あるいは主権者(=公共)の意志である。立法においては常に主権者の意志が優先されなくてはならないが、自然状態では自分に近い事柄つまり個人意志が最も強くなる。つまり、政府が1人である場合、個人の意志と団体の意志は一致するため、最も強固な状態になる。逆に、政府を立法者とし、政府を主権者とし、市民全体を行政官とすれば、団体意志と一般意志は混同され、それ以上の活動はできなくなり、個人意志として蔓延してしまう。行政官が増えれば政府は弛緩するのに対し、人民が増えればさらなる強制力が必要になる。
第三章 政府の分類: 主権者は、政治を国民全体あるいは国民の大部分に委任し、ただの市民より行政官の数を多くできる、これを民主政治という。主権者は、政治を少数の者に委任し、行政官より市民の数をずっと多くできる、これを貴族政治という。また、主権者は1人に権力を集中させることもできる、これを君主政治という。最高行政官の数が市民の数と反比例するのであれば、民主政治は小国に適し、君主政治は大国に適する。しかし、様々な事情によって例外が発生している
第四章 民主政府: 立法と執行が同一の制度は一見良さそうに見えるが、為政者と主権者が区別されないことになり、言わば政府のない政府が作られることになる
第五章 貴族政府: 政府と主権者という精神的人格が存在する。古き時代は貴族政治が行われ、元老院や祭司、長老、老官といった老人の意味を含む属性が公共を統治した。しかし、その不平等によって、年齢が富と権力に取って代わられたため、選挙制度が用いられるようになった
第六章 君主政府: 集合体が一個人を代表する他の政体とは異なり、一個人が集合体を代表するため、王公を構成する精神的一体は肉体的にも一体である。他の政体では法律や非常な努力で合一されているものが、自然と一致する。王はその権限が揺るがないものであることを欲する、民は愛されることが必要であることを訴える。民の繁栄が国の利益そのものであることを理解しつつも、民が弱く貧しく反抗できないことを望んでいる。共和制は賢明で有能な人以外が権力を持つことを許さないが、君主制で権力を持つのは決まって小賢しい悪人だ。統治というのは難しい学問で教えてできることではない。人に服従して喜ぶさまを学習することが、もっとも効率的な学習手段と言われている
第七章 混合政府: 政府には段階がある。1人の元首にも多くの属官が必要だし、人民政府にも1人の首長が必要である
第八章 全ての政体は全ての国家に適合するものではない: 自由はいかなる風土にも実を結ぶものではないので、いかなる国民をこれを手にいれるわけではない。
第九章 良政府の特徴: 先の通り、良い政府の定義が曖昧であり相対的なものなので、画一的な尺度は存在しない。臣民は平穏無事を祈るが、人民は自由を欲する。こうした前提があるときに、政治的統合の目的は何か?団員の保全と繁栄を目的とすれば、人口の増減がもっとも確実な指標である。
第十章 政府の弊竇とその衰退の傾向: 個人的意志は常に一般意志に対抗するので、政府は普段に主権者に対抗する。これにより国家の力は弱まる。政府が縮小するとき(民主制→貴族制→君主制)、国家が崩壊するとき。実際には、政府がその政体を変更するのは、従来の政体を維持できなくなったとき。国家が崩壊するときは、政府が法律に沿って政治をしなくなりその主権を剥奪され、社会契約が破棄されるとき。また、政府員が一団となって行使する権力を別々に僭奪するときも、法律が破られ国家は崩壊する。通俗的な意味では、暴君は正義や法律を無視した君主だが、権利がないのに実質的な王権に及ぼうとする人を指す。
第十一章 政治体の死滅: ローマやスパルタを見ればわかるように、いかなる政治体もいつかは消滅する。よって、どんな制度も永久不滅のものではない。生まれた瞬間から死滅する要因を孕み、組織も人間も強弱があるため生命に長短がある。国家の生命の本源は主権にあり、脳髄は執行権、心臓は立法権である。脳髄が停まっても生体は生きていくが、法律が止まれば死んでしまう。
第十二章・第十三章・第十四章 主権は如何にして維持されるか: 主権者は立法権しか持たないのだから、法律以外を通じて行動することはなく、法律は一般意志の表明なのだがら、主権者は国民が集会している場面以外で行動することはできない。人民が法律を一度決めるだけでは不十分だし、人民が永続的な政府を立てるだけでも不十分。誰も廃止することのできない継続的な集会が必要である。期日によって合法となるこの集会以外の国民の集会は、行政官が集まった所定の集会を除き、不法となる。主権は単一だから分割してはならない。ひとつの都会は、国家と同様に他の都会に従属することはあり得ない。政治体の本質は服従と自由の調和である。 臣民と主権者は表裏であり、あわせて市民である。国民が主権者の団体として集合すれば、政府の力は止み執行権は停止され、最下層の市民の身体も侵食できないものとなる。政府は政府を超える力が出ることを恐れるため、市民がそれを嫌うような術策を講じてきた
第十五章 議員または代議士: 市民が公務に対して、身を挺すのではなく財嚢を以て尽くすようになれば、それは死んだも同然である。イギリスの人民は自由国民だと思っているが、彼らは選挙のためだけに使われており、選挙が終われば取るに足らぬ奴隷になる。保民官が市民を代表することがあるのは、政府が主権者を代表するかをわかれば充分であり、法律は一般意志の表明に他ならないので、立法権において国民が代表されることはできない。しかし法律を運用する執行権においては代表されうる。
第十六章 政府の設立は契約ではない: 立法権が確立したら執行権を確立しなければならない。執行権は個人的行為によりて通用するので、立法権の本質ではなく、それとは分離されるものである。
第十七章 政府の設立: 政府の設立は、法律制定の行為と法律執行の行為から成立している。主権者が政体の下に政府を設立するのは法律であり、国民はその政府の支配者を任命する。政府が存在しない時点で政府の行為たるか、また、主権者もしくは臣民に過ぎない人民が、如何にして行政官または政務官になるのか。一般意志の単なる行為で政府が設立されることは、民主政治の長所である。
第十八章 政府の僭権を防ぐ手段: ここまでの説明により、政府の設立は法律であり、行政権の支配者は国民の支配者ではなく国民の吏員である。国民は任命し解任でき、契約ではなく服従する必要がある。政府が腐敗する時に監視や干渉するために、定期的な集会は必要である。
第四篇
第一章 一般意志は破壊することができぬ: 多数の人間が集合して一体になっていれば、考えることは唯一で一般意志である。一般意志をもった人民が構成する国であれば、法律は小さく新たな法律を作るときの合意形成も最小である。「社会の結び目が弛みはじめて国家が衰退の機運に向い、個人的利益が漸くのさばりはじめ、小社会が大社会を動かしはじめると、公共の利益は損なわれ、その敵が現れて来る。そうなると投票はもはや全員一致ではなくなり、一般意志は全体の意志ではなくなり、軋轢が生じ論争が生ずる。そしてどんなに立派な意見でも争議を経なければ通過しなくなって来る。」
第二章 投票: 公務の実行は政治体の状態をよく表す。会議に異論が少なく全員一致に近い程一般意志が優勢である。討論の延長、意見の分裂などは、個人的利益が優勢を占めている。いつでも全員一致を望む方法は社会契約しかない。人は生まれながらにして自由なので、屈従させるには同意が常に必要である。国家が建設されている以上、その土地に生まれた人は国家に帰属し、主権者への服従を意味する。自由にも関わらず、自己ではない意志に服従しなければならない?承諾しない法律に従わなくてはならない?否、反対しても通過した法律に同意している国家普遍の意志こそが一般意志なのである。法案が提出された時に国民が求められるのは、それを承認するのかではなく、それが一般意志と一致しているかの確認である。議題の重大さに応じて満場一致が必要になる。
第三章 選挙: 選挙には公選と抽選がある。真の民主政治の国においては抽選選挙の恩恵はほとんどなく、道徳も才能も主義も財産も同じだからである。
第四章 ローマの民会: 習慣には起源がある。ローマが建国されたあとは3つの階級に分類され、部族 tribes と呼ばれた。この中から選抜された騎士団が生まれた。軍事上の区分に過ぎなかったが、大国になろうとする故に政治組織を採用させた。市部部族と村落部族への分割は、風習を保存しながら拡大することに寄与した。民会が機能するためには、民会を収集する行政官に権威を与えられていること、法律で許された日に収集されていること、占卜が瑞兆を示していること。
第五章 保民官: 国家を構成する各部分、王府と人民、王府と主権者などに、行政官を設けて中項とする必要がある。保安官は、法律と立法権との維持者であり、時には政府に対して主権者を保護し、時には人民に対して政府を支持し、時には両者の均衡を維持できる。立法権も執行権も持ってはならないが、故に絶大な権限を持つ。何もできないが、何でも阻止できる。
第六章 独裁官: 法律の不可撓性は、国家を危機に追いやる可能性がある。法律を作った人ですら予期できないことがあることを認識することは非常に大切なので、時には法律を休止する必要もある。とはいえ、国家の安全に拘る場合を除けば、法律を機能させ続けなくてはならない。危険を回避するために政府の力を強めれば良いのではあれば、そうする。重要な任務の委任も、ごく短期に設定し、かつ延期できないようにすることが重要である。
第七章 都察官: 一般意志が法律で宣告されるように、公衆の判断は都察官に宣告される。世論は都察官が執行する一種の法律である。故に都察官の法廷は世論の審判機関ではなく、宣告機関に過ぎない。道徳の判断は正しくある必要がある。道徳の判断は名誉の判断であり、名誉の判断は基準を世論に求める。
第八章 市民の宗教: 人間ははじめ、神々以外に王を持たず神政政治以外に政治を持たなかった。同胞を支配し、それを良いと思うまでには長い年月を要した。
第九章 結論