暗闇のなかの希望
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あなたの敵は、もう希望はないとあなたが信じることを願っている。無力で、立ち上がる理由もない、もう勝てないのだ、そうあなたが思い込んでしまうことを。希望とはギフトだ。だれにも譲り渡す必要はない。そして力だ。捨ててしまう必要はない。
それらに増してよくないことは、気候変動が科学者たちが予期した以上に早く、過酷で、破壊的なものとして到来していることだ。
希望をもつことは、こうした現実を否認することを意味しない。希望をもつことは、それらを直視し、それらに取り組むことを意味する。
私の関心にある希望とは、具体的な可能性を備えた幅広い考え方に関するもの、私たちに行動を促し、あるいは命じるものだ。
希望は、私たちは何が起きるのかを知らないということ、不確かさの広大な領域にこそ行動の余地があるという前提の中にある。不確かさを認識することは、その帰結に影響をもたらせるかもしれないと気がつくことだ。それはあなたが一人でやることかもしれないし、数人、数百万人とともに行うことかもしれない。希望とは未知や不可知のものを受け容れることであって、確信的な楽観主義や悲観主義とは違う。楽観主義者は、私たちが関与しなくても物事はうまくゆくと考える。悲観主義者はその逆だ。どちらも自分の行動を免除する。希望とは、いつ、どのように意味が生まれ、だれや何にインパクトを与えるのかあらかじめわからないとしても、それでも私たちの為すことに意味があると信じることだ。
最初は突飛だったり、馬鹿馬鹿しい、あるいは極端だと思われていた理念が、少しずつ人びとがずっと信じてきた気がするものへ変わってゆく。変化がどのように起きたか、ということはほとんど記憶されることがない。その理由のひとつは、それが何かの失墜につながっているからだ。それはメインストリームの人びとに、今とは違う時代を思い出させる。たとえば、今よりもずっとホモフォビアや人種差別が激しかった時代のことを。そして影や周縁から立ち上がった力に気づかせる。私たちの希望は光を浴びた舞台の真ん中ではなく周縁の暗がりにあること、私たちの希望も、しばしば私たちの力もそこにあることを思い出させるのだ。
「私たちが受け容れねばならない失望は有限だ、しかし失ってはならない希望は無限だ」
物事は常に良く変わるとは限らない。しかし物事は変わる。行動しさえすれば、私たちはその変化の中で何らかの役割を果たすことができる。その変化こそが、希望や、記憶、すなわち私たちが歴史と呼ぶ集合的な記憶が生まれる場所なのだ。
こうしたすべての変化に共通するのは、その始まりが想像力や希望の中にあることだ。希望をもつということはギャンブルである。希望をもつということは未来や自分たちの欲求に賭けることであり、開かれた心や不確かなものが、塞いだ心や安全なものに優るかもしれないという可能性に賭けることだ。希望をもつことは危険であり、それでいて希望は恐怖の対極にある。なぜならば、生きることはそれ自体冒険だからだ。
希望は、単にもうひとつの世界が可能かもしれないということにすぎず、そこには約束も保証もない。希望は行動を求める。希望がなければ行動はできない。ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホは、一九三〇年代に著した希望についての大著の冒頭に次のように記している。「この感情のはたらきは、生成するもののなかにその身を投げ出す人間を求める(4)。彼ら自身もまた、その生成するものの一部である」。希望をもつことは、あなた自身を未来に捧げることであり、その未来へのコミットメントが、現在を生きられる場所にするのだ。