日本の難点
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社会における「評価の物差し」
若者のコミュケーションのフラット化: 人間関係が希薄したのかとほぼ同義で、問の種類によっては YES。尊厳と他者性の結びつき、自分が自分であることを支えていることに、他者の存在が影響しているかどうか。血縁関係や地元などの「近さ」という事実性が重要な意味を持っていたが、人口の増大をはじめ流動性が確保されたため、人間関係へのコミットメントが弱まった。 故にコミュケーションが希薄化し、フラットになった。マスメディアが退潮したのは、分化した趣味を共有できる空間がインターネットによって無数に存在し、共通の前提を与えられなくなった。
「いじめ」とは、人の「自由」な日常的活動のベースになっている「尊厳」(他者の承認を契機とする自己価値)を、回復不能なまでに傷つけることで、以前と同じ生活を送れないようにしてしまうことです。「尊厳」を破壊することで「自由」を奪う営み
周囲に「感染」を繰り広げる本当にスゴイ奴は、なぜか必ず利他的です。人間は、理由は分からないけれど、そういう人間にしか「感染」を起こさない
社会学者のニクラス・ルーマンは「おかしなことは何も起こりません」という期待を「慣れ親しみ(安心)」と呼び、「いろいろあっても大丈夫です」という期待を「信頼」と呼びます。「安心」は脆弱ですが「信頼」は強靱です。対面コミュニケーションを「信頼」ベースにするべき
空手の極意(宇城賢治監修『古伝空手の発想』)とよく似ていますが、「何をするにも相手の反応を予測し、相手が反応する前に既に対処を終えている」ような構え(行為態度)こそが必要です。相手の反応に驚いているような時点で、(相手にというより自分に)既に「負け」ている
「歌舞伎町は危ない場所です」という場合には「危険」が問題ですが、「会社を辞めて個人で起業すると倒産する可能性があります」という場合には「リスク」が問題です。つまり「リスク」は、モノの属性ではなく、行為に関わる期待外れの蓋然性(確率論的なありそうさ)に関係する概念
さて、麻布中学に進学すると周りは確かにできる子ばかり。でも、高校に上がって、大学受験直前になると実力テストの順位ががらりと変わります。小学生時代から塾に通いつめ、中学進学以降も家庭教師つきっきりだったような成績優秀者は、軒並み追い抜かれていきます。追い抜くのは、非ガリベンの子たちです。 つまり、ガリベン君が勉強している間に、部活動や異性交遊や街での遊びに興じていた「地アタマ」のいい子たちが、一気に追い抜いていきます。同じ東大に入っても、東大卒業後に尊敬できる活動をしているのも、こうした連中ばかりになります。僕はそれをつぶさに目撃してきているのです。
必ず間違う理由は今日の学問の言葉で言えば二つあります。一つは「境界設定の恣意性」です。どうとでも区別できるのにそう区別していることが恣意性です。排除の恣意性とも呼べます。「我々の平等」を掲げる場合「我々」の範囲はいつも恣意的です。「人間全体」をとってさえ「何を以て人間とするか」という範囲は恣意的です。
人のなす区別が必謬的であるもう一つの理由は、「因果理解の恣意性」です。無限に続き拡がる因果の中から、人は恣意的に一部を切り取り「あれは良かった」「これは悪かった」と思いがちです。でも「世の摂理は人知を超える」。人知を超えた時間の中で、善は悪を産み、悪は善を産むのです。
中国文化圏の影響を受けた場所には「人間万事塞翁が馬」という言葉がありますし、日本でも「終わり良ければ全て良し」という言葉があります。でも「塞翁が馬」の話には原理的に「終わり」がなく、「終わり良ければ」にしてもどの時点が「終わり」なのか定かでありません。
非正規雇用と正規雇用の垣根を低くして、労働者側には同一労働同一賃金の原則を、企業側には解雇の自由を。働けない事態に陥った際には、社会保険の給付を含むセーフティネットを用意すること。