夜と霧
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人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい……。
人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。
ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。
「いいか、オットー、もしもわたしが家に、妻のもとにもどらなかったら、そして君がわたしの妻と再会したら……伝えてくれないか。よく聞いてくれ。まず、わたしたちは来る日も来る日も、いつも妻のことを話していたということ。な、そうだったよな? つぎに、わたしがこんなに愛したのは妻だけだということ。三番めに、夫婦でいたのは短いあいだだったが、その幸せは、今ここで味わわねばならなかったことすべてを補ってあまりあるということ……」
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
人は未来を見すえてはじめて、いうなれば永遠の相のもとにのみ存在しうる。
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」(『エチカ』第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三)
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」