AIと人類
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AIは人間にはおよそ不可能な速度でデータを処理できるだけではない。人間が気づいていなかった、そしてもしかすると永遠に気づけないような現実の一面を察知することができる。
伝統的に人類は、理解できないものを二つの分類のいずれかに割り振ってきた。一つはいつか論理的思考の対象とする課題、もう一つは直接的理解や説明の対象とはならない「聖なるもの」という分類だ。 AIの登場によって私たちは、人間がまだ獲得していない、あるいは決して獲得することのできない論理というものが存在するのか、しかもそれは人間がまだ知らない、そして今後も直接的には知りえない現実の側面を探索するのか、という問いに直面することになった。
AIは結論を導き出し、予測を立て、判断を下すことはできるが、自己認識は持ち合わせていない。つまり、自らのこの世界における役割を考える能力はないわけだ。AIに意思、意欲、倫理観、感情はない。こうした資質がなくても、おそらく与えられた目的を達成するために、これまで人間が生み出してきたものとは異なる、予想外の方法を生み出していくだろう。
現実の新たなレイヤー(層)が明らかになっているという認識が広がった。その結果、不協和が生じた。社会は依然として一神教の下でまとまっていたが、現実の解釈や探求においては分断が生じていた。世界とそこにおける人間の役割を理解するための探求の指針となるような概念、あるいは哲学が必要になっていた。 そうした要望に応えたのが啓蒙主義時代の思想家たちだ。「理性」、すなわち物事を理解し、思考し、判断する能力こそが、環境と向き合う方法であり目的である、と断定したのだ。
カントの説明では、人間の理性には現実を深く知る能力があるが、常に不完全なレンズを通して現実を見ることになる。人間の認知や経験は、たとえ「純粋に」合理的思考をしているときですら、知識を整理し、構成し、ゆがめる。厳密な意味での客観的現実、カントの言う「物自体(ヌーメノン)」は常に存在しているが、本来、私たちは直接的に知りえないものだ。ヌーメノンの世界、すなわち「純粋知性から見た世界」は、人間の思考を通じた経験やフィルターとは独立して存在している、とカントは考えていた。人間の知性は概念的思考と経験に依拠しているため、物事の本質を知りうるほど純度の高い知性に決して到達できない。できるのはせいぜい、自らの知性はヌーメノンの世界をどのように映しているのだろうか、と考えることくらいだ。その世界を子細に思い描くことはできるが、それは本物の知識ではない。
啓蒙主義とは人間の論理能力の限界を認めつつ、理性の可能性を信じる姿勢であり、それが長らく私たちの世界を支配してきた。科学革命によって特に二〇世紀には技術と哲学が発展したが、人間の知性によって理解可能な世界が一歩ずつ解明されていくという啓蒙主義の中核的前提は揺るがなかった。
理性の時代の技術的成果は重要なものだったが、最近までは散発的にしか起こらず、伝統とも容易に折り合いをつけられた。イノベーションは従来の方法の延長としてとらえられた。映画は動く写真、電話は空間を超えた会話、自動車は猛烈なスピードで走る馬車、といった具合に(馬がエンジンに代わっただけで、性能も「馬力」で表現されていた)。 同じように軍事の世界でも、戦車は騎兵が、戦闘機は大砲が高度化したもので、戦艦は動く要塞、空母は可動式の滑走路だ。核兵器さえも「兵器」という言葉にとらわれ、各国は戦争に対する従来の経験や理解に基づいて「砲兵隊」にその扱いを任せた。
AIは曖昧で、動的で、創発的(エマージェント)で、「学習」能力がある。
15世紀のヨーロッパで起きた印刷技術の革命は、新たな思想や言論を生み出し、それは既存の社会の在り方を破壊すると同時に豊かにした。AIも同じような効果をもたらすはずだ
AIは人間の理性を損なうようなダイナミクスを加速させる。ソーシャルメディアは内省の機会を奪い、ネット検索は概念化の意欲を削ぐ。