14歳からの社会学
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「みんな仲良し」はタテマエではなくホンネとして昭和の原風景に存在した。「みんな」の境界は曖昧になり、資本主義を背景に成功者が排出されてきたことは、自分が良ければ良いというホンネが表れている。グローバル化は進み、「みんな」は公的な意味を帯び、日本人だけでなく世界を包むようになった。様々な分野で、世界で活躍する人が増えたように、日本への所属があっても出入りが増えた。社会学では「公的なことに対して合意があること」と「熱心な関わりがあること」が定義されている。たとえば昔は深刻だった環境問題は、現代では今の話ではなく先の世代への影響が問われている。我々が死んだ世代における「みんな」を我々の一部であることへの合意が公的であるための条件であり、それを守り抜くことへのコミットメントが必要である。
社会学者が考えてきた「幸せに生きるということ」のひとつに「自由であること」がある。学校がなかった時代は、選択肢がなかったので学校にいけないことは不自由ではなかったが、お金持ちの家庭だけが通えるようになると、選択肢がある上で選べるという自由が発生する。皆が通うようになった今は、何を学ぶべきかを選ぶ能力も問われるようになった。高校まで一貫した教育を受けてきた我々は大学で何を学べばいいかわからなくなっている。そこで楽しいのか辛いのかを問わず、「現状を受け入れる」のではなく「自ら選ぶ」ことを鍛錬しなくてはならない。
辛いのは誰のせいなのか。環境を作った大人が悪いのか、環境を辛いと思う自分の境地が悪いのか、環境を変えようとしない消極的な自分が悪いのか。自らを変えて強くすることは良いことだが、その悪い環境を作った人が放置されてしまう。現代は選択肢が増えたが、私達はそれを知っているのか、そして選ぶ能力があるのか。それ次第では他社のせいにしたり、自分のせいにしたりしかねない。
自由なだけでは幸せになれない、必要なものを「尊厳」を軸に考えてみる。自由と尊厳とは。選ぶ能力があることが自由であるが、その能力を獲得する過程で死んだら浮かばれない。能力があると自由を楽しめる度合いが異なるが、能力の乏しさを嘆く必要はなく、そんな自分の存在を受け入れられる、それが尊厳た。
自由ですべての幸せを実現することは難しい。それぞれの自由を確保するルールだけでは不十分であり、社会が一色の文化に染まっていても(あるいは染まることがないように)自由を確保できる多様性が両立されていなくてはならない。
どんな自分も他者に受けて入れてもらえると思える「尊厳」は、他者に対して自由に振る舞うために必要だ。「バカにされるんじゃないか」という恐れを取り払うには、「承認」される経験を必要とする。試行錯誤し(自由)、他者が認め(承認)、失敗を容認する(尊厳)、そして試行錯誤する、これが大人になるということだ。しかし、現代では「みんな(他者)」がわからなくなり、誰が「承認」してくれるのかわからなくなり、「尊厳」を得にくい。そうすると先の循環は生まれない。
そうなると、他者に承認して欲しいあまり、いくつかのタイプがでてくる。
周りの期待に反応しすぎる。気に入られるために良い子を演じたり、遠慮して自分の意見を言わなくなる。アダルトチルドレン
周りの期待と自分の能力の落差に直面し、失敗を恐れて試行錯誤できなくなる。尊厳がないので、自由に見放される(選択できない)。引きこもり
承認されない環境に慣れてしまい、他者との交流と結合した尊厳を諦める。アダルトチルドレンや引きこもりは他者を必要とするが、このタイプは異なる。脱社会的存在
社会を震撼させた酒鬼薔薇聖斗事件は、まさに脱社会的存在だ。「人を殺してはいけない」というルールがある社会はない。むしろ、兵隊や死刑執行人のように「仲間のために人を殺す」というルールがあるのだ。私達は人を殺せないように育ってきた。それは他者と交流して承認されることを通じて尊厳を獲得してきたからだ。つまり、自分が自分であることには他者の存在が必要なんだ。
しかし元に自分が自分であるために、他社の存在を必要としない人たちが出てきた。尊厳が他者を経由していない。他者と交流せずに自己形成できるような社会は長続きしない。
昭和 30 年代がブームになっているのは、「 みんな」がイメージしやすかったからだ。戦争が終わり復興に追われて、パパが一生懸命働く。大阪万博のころにはアメリカの次に豊かな国になり、3S/3C といった生活を豊かにする道具が普及した。それが昭和 30 年代であり、貧しさから豊かさに向かった時代。しかし今では「いい学校」も「いい会社」も「いい人生」を保証してくれない。
子供は試行錯誤しながら、少しづつ段階を踏んで承認され、承認を得ていく。昔はみんなに共通認識があったから試行錯誤できたが、その共通前提を失った今は人付き合いを投げ出してしまう「ひきこもり」「脱社会的存在」が出てきた。そうした存在は決して特別ではない。そして、変化してしまった社会を戻すことはできない。
「みんな仲良し」を前提とした教育はうまくいかないことに気がついた。他国では早々に切り替えているが、日本にはまだ残っている。想像もしない考え方をする人は増えた、そんな自分にとって価値のない人たちとは適当に付き合えば良い。
昔は「みんな」が同じ「豊かな社会」に向かって舟にのっていた。豊かな社会が実現された今、みんなの目的は人それぞれになり、目的地を考えるにも試行錯誤が必要になった。未だに多くの日本人が学歴をアイデンティティと認識している社会で、「失敗しても大丈夫」と思える尊厳を持って舟を動かせるか。
東大法学部をでて外資系企業に就職し、NPO/NGO を経て国連職員を狙う。わかりやすく「承認」を求めている例だ。しかしことはそんなに単純ではない。尊厳はこれさえあれば手に入るというものではない。他者を前に試行錯誤を繰り返した結果が必要だ。
地元の人も便利に使っていた踏切を勝手に作って逮捕されたおじいさん。電車のマナー違反を注意しやすくするために設置されたマナー員。どちらも昔ではそうならなかったかもしれないが、共通感覚が失われたからであり、今はその認識の隙間をルールで埋めている。これは社会が複雑になって仕方ない部分もあるが、共通感覚を再構築する方向に向かわなくて良いのか?今はルールを当てはめて、厳しく罰することに関心を向けがちだ。
地域で一番手の進学校のルールが緩く、二番手三番手のルールが厳しいのは、一番手にはプライドと責任を自覚させ、二番手三番手には向上心を埋め込むため。
どんな行為をすれば人を幸せにできるのか、行為功利主義。どんな規則があれば人を幸せにできるのか規則功利主義。先の踏切のおじいさんの例は行為功利主義としては良いが、規則功利主義では悪いとなる。
誰が卓越した人が皆に理解されないかもしれないけど幸せになるルールを作ることを、卓越主義的リベラリズムという。良い教育を考えるときも、自分の子供が幸せになるための教育と良い社会になるための教育という、行為功利主義と規則功利主義の対立がある。多くの人が自分の利益を目指して行為功利主義で行動すると、共通感覚が消えた社会では他人を出し抜いて良いポジションを得ようとする人ばかりになる。競争は必要だが、条件は公平でなくてはならない。だから、規則功利主義が必要なのだが、難しいので最初は特別に優れた人が考えなくてはならない。そうしたエリートが尊敬される社会が必要だ。エリートは専門的な知識と経験をもって、皆にとっての幸せを考える。これは私達の選ぶ能力を高めることに繋がる。
古代ギリシアまで遡り、この世には不条理や理不尽に満ちているとする「主意主義」とそれを否定し人間の知識ですべてを覆えるとする「主知主義」がある。社会学は主意主義の立場をとり、なにかが起こった時にその人の意思を出発点とする。環境のせいにする人がいるが、それは単なる前提にすぎない。社会学は意思の前提となる社会を分析する。選んだ背景を分析するけど意思を消すことはできない。
規則功利主義でエリートが考える優れたルールに從って、幸せになれなかったとしてもそのルールが間違っていたとは限らない。主意主義ではどんなに社会が良くなっても人が幸せになれるとは限らない。お金持ちになった途端、お金への興味を失い、別のことを意思しはじめる。絶えず意思は変わるので、社会は回り続ける。